この男、猥褻につき

夜の連続ブログ小説(ほぼ完全ノンフィクション)

第百五十五話「幸福」

time 2016/12/08

第百五十五話「幸福」

 いきなり「服部」と名乗られて、「誰やねん!」と思ったけど、こないだ世界地図のモニュメントの前でナンパしたミカちゃんだった。声の感じで何とか分かったけど、名字は教えてもらってなかったから、危うく気分を悪くさせるところだった。

「すみません。こちらでの通話はご遠慮ください。」
「あ、は、はい。すみません。」

 ケータイを当てた右耳に、全神経を集中させている時に、いきなり左側から声を掛けられたから、一瞬イラっとしたけど、たしかに病院の廊下で電話をするのは、あまり褒められる行為ではない。

「もしもし、聞こえてますか?」
「う、うん。聞こえてるよ、ミカちゃん。」

 電話口から聞こえるミカちゃんの声は小さくて、聞き取りづらい。こっちが聞こえづらそうにしていても、特に声を大きくするわけでもなく、ただ淡々と話す。まぁ、ミカちゃんらしいと言えば、それまでなんだけど。

「田附さん、もうすぐ生まれそうですよ。」
「は、はい。」

「明日、会える?」
「もちろん!どこにする?」

 あのミカちゃんが電話をくれて、しかも「会える?」なんて言ってくれるもんだから、本当なら飛び跳ねて喜びたいくらいだ。でも、ここは病院の廊下だから、そんなことは出来ない。

「え、なに?」
「いや、なんでもないよ。何時にする?」

「すみません。お電話は外でお願いします。」
「はい。はい。すみません。」

 分かってる。看護婦さん、分かってるから、ちょっと待ってください。お願いします。俺は今、人生で何度かしかないメッチャ重要な時やねん。とにかく、この電話の相手の子と、明日の約束をしなければアカンねん。

「田附さん、元気な女の子が産まれましたよ。」
「え、あ、はい。」

「じゃあ、南座の前で、夜七時で良いかな?」
「うん、分かった。」
「明日、楽しみにしてるね、ミカちゃん。」

 あかん、めっちゃ嬉しい。なんとなく、ミカちゃんは電話をかけてきてくれるような気がしていたんだけど、さすがに一週間も経つと諦めかけていた。だからこそ尚更、とにかくメッチャ嬉しい。ありがとう、ミカちゃん。明日は、おいしいフレンチを食べよな。

満面の笑みを浮かべる俺を見て、勘違いした看護婦さんが「おめでとうございます。良かったですね。」と声を掛けてくれる。だから、俺は「はい、ほんまに良かったです。」と元気に返した。

「サエコさん、ご主人が来られましたよ。」
「え、はい。」
「ご主人も、すごく嬉しそうな笑顔をされてます。」

 勘違いしたままの看護婦さんが、俺をサエコのところまで案内してくれた。産まれたばかりのサクラコは、どこか別の場所に移動させられたらしく、マラソンを走り切ったあとのランナーのような表情をしたサエコだけが、分娩台の横のベッドに横になっている。

「サエコ、お疲れ様。」
「あ、来てくれてたん。ありがとう。」
「当たり前やん。」
「ああ、無事に産めて良かったわ。」
「うん、ほんまに良かった。俺、幸せやわ。」

 頭の中で「南座、七時」を何回も繰り返す。本当はどこかにメモ書きをしたいんだけど、看護婦さんに「紙とボールペンを貸してください。」とも言えないので、「南座、七時」を繰り返すしかない。

「すぐに病院に来れたん?」
「そう、電話を切ってから、すぐ出た。」(南座、七時)
「仕事、大丈夫やったん?」
「そやな。」(南座、七時、南座、七時)
「今回は、短かったやろ?」
「そやな。」(南座、七時、南座、七時、南座、七時)
「今、何時?」
「ミナミザ、シチジ」
「はぁ?」
「あ、いや、えーっと、もうすぐ、七時。」

 今晩のうちに、明日のディナーの予約をしておきたい。サエコの方は、一回目と違って、普通に会話もできるし、元気そうだから、大丈夫やろ。

「俺、ちょっと店に戻るわ。」
「うん、分かった。」
「明日の朝、様子を見に来るから。」
「ありがとう。また明日。」
「うん、明日!」


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