この男、猥褻につき

夜の連続ブログ小説(ほぼ完全ノンフィクション)

第百七話「我が子」

time 2016/03/18

第百七話「我が子」

 この俺が、ひとつの生命の起源になり、そして、ひとりの人間の親になるということなんだけど、全く実感が沸かない。本当に産まれて来るんだろうか、ちゃんと育てられるんだろうか、どこか他人事のように思ってしまうけど、きっと数時間後に、俺は人生で初めて、親になるんだろう。

「田附さんのご主人ですね、こちらです。」
「サエコは、どうですか?」
「すごく強いお母さんですよ。」
「そうですか。」
「俺、どうしたら良いんですか?」

 出産前の講習会のようなものに、俺も一緒に参加して、いわゆるラマーズ法のようなものを教えてもらったりした。とはいえ、俺が産むわけでもないから、あまり熱心には聞いてなかった。分娩室に入ってやっと、自分の子供が生まれてくる瞬間に立ち会うんだという実感が沸いてきた。

 ドラマでした見たことがない光景が、目の前に広がっている。さっきまで苦しそうな表情を浮かべていたサエコは、今はすっかり落ち着いているようで、俺の方を見ながら「いよいよやね。」と笑顔で話しかけてくる。最初にこの部屋に入ったときには、すごく緊張したけど、なかなか状況が変わらないから、ちょっとテンションが下がってきた。

 俺の表情から思いを感じ取ったのか、ベテランらしき年配の看護婦さんが「ご主人は一度、部屋から出られてください。」と、手で出口の方を指し示しながら言った。相変わらず余裕の表情を見せるサエコの手を強く握って「また戻ってくるな。」と声を掛けてから、周りの看護婦さんに言われるがままに着衣を脱いで、廊下に出た。

「もしもし、山下さん、おる?」
「少々、お待ちください。」
「はい、山下です。」
「あの、あれ、観葉植物、なんとかしといて。」
「分かりました。」

 一旦、分娩室から出てみると、何もやることが無くて暇だ。中にいても、特にやることは無かったんだけど、無機質な廊下に放り出されてみると、より一層、何もやることが無い。自分が患者として病院に来ることは頻繁にあるけど、お見舞いで来ることなど滅多にないし、ましてや自分の嫁が、自分の子供を産もうとしている状況なんて、俺の人生で最初で最後の経験かもしれない。

 俺が再び分娩室に呼ばれたのは、それから八時間後のこと。夜明け前から緊張状態のままでいるサエコは憔悴しきっていて、俺の顔を見て笑みを浮かべるものの、明らかに朝のような元気な様子ではない。看護婦さんから「奥さんを励ましてあげてください。」と言われて分娩室に入ってきたから、俺にも少し役割が与えられたようで嬉しい。とにかく「サエコ、頑張れ。」と手を握り、声と表情で応援する。

「ヒロキさん、お腹をさすってあげてくれる。」
「ええよ。」
「ほら、カオルコちゃん、お父さんですよ。」

 結局、この日、俺たちの子供は産まれてこなかった。サエコはベッドに横になって、まだ見ぬ我が子が再びその気になる時を待っている。そうそう、俺たちの第一子の名前は、カオルコにした。今、俺がハマってるアーティストの名前から取ってん。男の子やったら、カオルにしようと思ってんけど、女の子だから、カオルコ。なんか女の子って、「子」って付いてる方がかわいい気がするから。

「具合が悪なったら、すぐに言うんやで。」
「はい。」
「明日も、頑張ろうな。」
「一緒にお願いしますよ、お父さん。」

 翌朝になって、また分娩室に戻ってきた。今日のカオルコちゃんのご機嫌は、どうだろうか。一旦、外に出たら、戻られへんから、居たいだけお母さんのお腹の中におったらええわ。まぁ、サエコの方は大変かもしれんけどな。

「さて、今日は出てきてくれるかしらね。」
「サエコ、お母さんの顔になってきたなぁ。」
「ヒロキさん、ぜんぜんお父さんの顔になってないで。」


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