この男、猥褻につき

夜の連続ブログ小説(ほぼ完全ノンフィクション)

第二十二話「ダート」

time 2015/11/17

第二十二話「ダート」
 スターターが赤い旗を上げ、ファンファーレが響き渡り、各馬がゲートへと収まる。興奮で武者震いをする馬、場内の雰囲気に飲まれている馬、人気とは裏腹に気合の入ってなさそうな馬、様々な表情を見せる馬たちが、ゲートが開くと同時に、一斉にダートコースへと飛び出す。少し出遅れた馬もいるが、先頭から最後尾まで十三馬身と言ったところか。第一コーナーから第二コーナーへ、第二コーナーから第三コーナーへと、自身の心臓の限界など忘れた競走馬の一群がゴールへ向かって全力で疾走する。

 第四コーナーを回り、いよいよ最後の直線を駆け抜ける馬たちに、場内に集まった競馬ファンたちの熱い視線が向けられ、歓声と怒号が渦巻く。ずっと先頭で一群を率いてきた馬が逃げ切るのか、大外から追い上げてきた馬がそのままの勢いでゴールに飛び込むのか。会場の盛り上がりは最高潮だ。

 その頃、やっとゲートから姿を見せ、ダートを走り始めた馬がいる。周りに比較する馬がいないから、早いのか遅いのかさえ分からない。ただ、とにかく夢中で走っているのは間違いなさそうだ。今さらゴールを目指しても意味がないよと競馬ファンは嘲笑うだろう。いや、このスタンドを埋め尽くす数万人の人々の中に、スタート地点で舞い上がる土煙りに気づいている人など誰もいないかもしれない。

 四年間、とにかく遊びまくった俺は、同じ年に大学に入学した同級生たちが卒業を迎える三月、月曜日から土曜日まで詰め込めるだけ詰め込んだ授業カリキュラムを組み上げ、新学期を待った。新入生向けの説明会で受け取って以来、一度も開くことのなかった分厚い冊子を引っ張り出し、大学を卒業するために必要な条件を十分に把握し、去りゆく同級生たちから単位の取りやすい授業について情報を集め、とにかく最短距離での卒業を狙う。

 もちろん、今さら大学を卒業して何になるんだという気持ちもあった。東京大学へと進学し、すでに社会人になろうとしている高校時代の仲間たちとの差が埋まるとは思えない。でも、俺は、卒業というゴールを目指すことを決意した。ずっとゲートのなかに留まり続けていた俺に向けて、何の疑いも持たず、温かい眼差しで、精一杯でかい声で、俺に声援を送り続けてくれている唯一人の俺のファンのために。

 久しぶりの勉強は、とにかく苦痛の連続だった。自堕落な生活を断ち切り、時間割りの中に自分を押し込むには、脇目もふらず、ただ真っ直ぐに正面を向いて、遥か彼方のゴールだけを見て、走り抜く以外に方法はない。高校の時、体育の河井に「走れ!とにかく走れ!」と怒鳴られて、校庭を何周も何周も走らさせられたのを思い出す。なぜ走るのかなんて考える必要はない。「とにかく走れ!」だ。

 ガンを宣告されたオヤジは、二回の手術を経て、普段通りの生活に戻っている。執刀医の先生からも、祇園に行っても良いと太鼓判を押されたそうだ。たまにかかってくる電話の声も、以前のオヤジと何も変わらない。そういえば、夏が本番を迎えようとしていた頃、オヤジから電話がかかってきて、「最近、お前の部屋の電話代が安すぎるやんけ。勉強をサボってるやろ。」と言われた時には、何と返事すれば良いのか困った。

 オヤジのために再開した勉強なので、少し手綱を緩めてペースダウンしても良いかもしれないと、弱い俺が顔を覗かせたけど、河井の顔を思い浮かべて、とにかく走った。本来なら三年間で履修するはずのカリキュラムを、二年間に凝縮して終わらせた。学業では、かつて神童だったことしか自慢できなかった俺だけど、この二年間の頑張りは、それにも増して誇らしい。四つ下の同級生たちに囲まれて、がむしゃらになって頑張った日々を、俺は一生忘れることはないだろう。

 いよいよ最終コーナーを回ったタヅケヒロキ号を待ち受けているのは、卒業論文という名の地獄の上り坂だ。これまでの奮闘で、俺はもうボロボロ。心拍数が限界に達し、脚も言うことを聞いてくれない。今にも倒れそうな俺が、血液の届いていない朦朧とした頭で考え出した論文のテーマは「競馬」。周りは冗談だと思っていたようだけど、俺は至って真剣で、日本を代表する騎手に単独インタビューをすることに成功して、それを論文にまとめ上げた。

 毎週末、克己と一緒に行っていた競馬が、こんなことに役に立つとは夢にも思わなかったけど、競馬専門紙の記者でさえ聞けないような質問を一流ジョッキーにぶつけた論文は、エンターテインメント性もあり、教授たちの評判も上々だった。実は、インタビューした騎手というのは、克己の実弟なんだけど、これは内緒の話。

 

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※この物語は、主人公の回想に基づき、だいたい8割くらい真実のフィクションであり、実在の人物とは一切関係ありません!とは言い切れません。

※夜の連続ブログ小説ということで、毎週月曜日から金曜日の夜8時(日本時間)に、最新話をアップいたします。毎晩読んでいただくのもよし、ある程度まとめて読んでいただくもよし、ご自由にお楽しみください。
 


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